湯の街の情緒溢れる有馬温泉の中心に位置する老舗宿。有馬温泉特有の金泉と四季折々の懐石料理をお楽しみくださいませ。
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散策〜有馬温泉の歴史〜

3羽のからす

現在のねがい坂
有馬の三羽からす

泉源を最初に発見したのは、神代の昔、大己貴命(おおなむちのみこと)と小彦名命(すくなひこのなのみこと)の二柱の神であったと記されています。この二神が有馬を訪れた時、三羽の傷ついたカラスが水たまりで水浴していました、ところが数日でその傷が治っており、その水たまりが温泉であったと伝えられています。

温泉のありかを教えてくれたこの三羽のカラスだけが有馬に住むことを許されたと伝えられており、「有馬の三羽からす」と呼ばれています。

聖武天皇(701〜756)のころ、有馬の存在を全国に広めたのは、高僧行基と伝えられています。

行基像
(温泉寺蔵)
仁西像
(温泉寺蔵)

時は流れ、堀川天皇の承徳元年、洪水があり(諸説はありますが)この後95年間の有馬は壊滅状態のまま推移したと考えられています。荒廃しきっていた有馬を救ったのは、吉野からやってきた仁西(にんさい)という僧で、建久2年(鎌倉幕府が開かれる前年)仁西は薬師寺を改修し、角の坊はじめとする12の坊を営み有馬を復興したとされています。

仁西上人がつくられたと云われている12坊の名称は以下であったと記録されております。
角の坊、北の坊(兵衛)、池の坊、茅の坊、横の坊、中の坊、中蔵坊、奥の坊、尼崎坊、上大坊、下大坊、二階坊

有馬地誌より(17世紀中期)

秀吉像
(温泉広場)

現在の有馬温泉の町なみの基礎を作ったのは、秀吉です、秀吉の事蹟の特筆は、慶長2(1597)年に始まった大規模な改修工事で、この直接のきっかけは、前年に近畿一円を襲った慶長伏見地震でありました、その地震は建物の被害も甚大ではありましたが、さらなる問題としてこの地震の直後から温泉の温度が急上昇し熱湯となってしまったことでありました。湯治効果の大なることを熟知していた太閤は、文字通り英断をふるい有馬温泉の根本的な改修工事に着手することになりました
 秀吉の工事以来350年間、有馬町(有馬町は明治29年に湯山町から有馬町に改称されました。)は一度も泉源の改修工事を行っておらずこの時の秀吉の英断がその後の有馬の繁栄に計り知れない影響を与えたことがわかります。しかし、工事が完成した慶長3年の5月に入湯の予定でありましたが、激しい風雨のため中止となり、その後まもなく床にふし同年の8月18日に没したため、秀吉はついにその成果をみることができませんでした。

つたのはの色なほうすひ角の坊

これは、有馬手引書に掲載されている湯女の通り名を読み込んだ句です。

有馬温泉の熱源

平成15年8月30日、「有馬温泉は、太平洋から日本列島の下に沈み込むフィリピン海プレートから生まれている」と産業技術総合研究所より発表されと、各新聞社より報道されました。

一方、有馬には古来より以下のような言い伝えがあります。

有馬潮の言い伝え

攝州兎蘆屋村の磯邊より沖中に塩筋あり、有馬の温泉は紀州熊野の神力を以、潮を交へ塩湯となし、衆生沈かの患を救ひ玉ふ、因て紀州の南海より此処まで虹のごとく潮筋あり、神慮厳勝の奇妙なり、今以絶せさりけり、是を有馬潮と號…

これは、紀伊半島の南から芦屋浜まで潮の通り道があり芦屋浜から地中に潜って有馬で湧いているという伝説ではありますが、フィリピン海プレートが海水を伴い紀伊半島のはるか南で地中奥深くにもぐりこみ、有馬の地下でプレートから分離した水分が有馬温泉で湧き出していることを関連付けて想像しながら有馬の湯に浸かることも楽しいかと思われます。

参考資料 有馬温泉史話 昭和13年10月16日発行 医学博士 小澤清躬 著

有馬温泉の観光案内は、社団法人有馬温泉観光協会のページにて



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